美唄はいまだかつてない停滞を経験しています。
岩見沢・砂川・三笠など近隣の市町村も、人口減少に直面していますが、それぞれに新たな取組と活気が感じられます。
一方美唄はいかがでしょうか。
残念ながら、それらに後れを取っていると感じる方が多いはずです。
その原因のひとつは「数年後、数十年後の美唄はこうなっていてほしい」というビジョンがないからではないでしょうか。
これまでの美唄をつくり支えてきた先輩世代の皆様、これからの美唄を発展させていく同世代の皆様、美唄だけでなくこの国と世界を担う将来世代の子どもたち。
皆様との対話を大切に、知恵を絞り、行動を重ね、「皆がときめく未来を語るまち」にしていきます。
お力をお貸しください。そして、ご期待ください。
市立病院の機能改善策検討を進めるとともに、医療・介護での人材不足を解消します。バスや乗り合いタクシーの利便性向上などにも市がリーダーシップをとり、病気や加齢が原因でまちを離れなければならない状況を解消します。
保育園の潜在的な待機児童の解消、国費による3~5歳に加え、市として3歳以下の保育料無償化など、子育て世代が生活していく上での不安を解消します。また、公園などの遊び場の整備や水道代の補助など、子育て世代に優しいまちをめざします。
子どもたちに英語やICTなどこれからの人材に不可欠な教育を国の基準よりも充実した水準で提供するとともに、大人の生涯教育としても提供し、世界とコミュニケーションできる人材育成をめざします。
美唄市民に理解を得て、美唄市民に利益をもたらす観光であることが前提条件。その上で、未来に向けて持続可能な観光を提供するとともに、DX推進の起爆材となる観光を目指して地域DMOとともに尽力します。
ホワイトデータセンターの強みを活かし、SDGs・ゼロカーボンを意識した大規模データセンターの誘致により雇用を創出します。これまでコラボレーションが少なかった、農村部と都市部の連携の中で美唄だからこそ可能な新規事業を創出します。
既存農業者への物価高騰対策支援やスマート農業を進めるためのIT教育の提供などのサポートに加えて、先進的農業技術へのチャレンジを後押しして、全国の自治体のモデルとなる農業地域を目指します。
市の宝・財産である職員がより活躍できる環境をつくり、ともに美唄を盛り上げていきます。例えば、他市町村に後れをとっているスマートシティ、自治体DXを強烈に進めるために、外部研修等を充実させ、市民サービスにより注力できる環境構築をめざすとともに、市役所の未来を担う職員の活躍の場を広げます。また、社会人経験者の採用など職員同士の刺激を増やし、職員のチャレンジを促します。
桜井 恒(さくらい ひさし)
1983年(昭和58年)9月生まれの39歳
西美唄で生まれ育ちました!
<家族>
妻・子ども2人(8歳男児と3歳女児)
<趣味>
スポーツ観戦
ブラダイの試合をたくさん観戦します!
<読書>
池井戸潤、東野圭吾など小説も好きですし、新書やビジネス書もよく読みます
<学歴>
・西美唄保育園
・西美唄小学校
・西美唄中学校
・岩見沢東高等学校
・北海道大学 農学部
大学では、稲の品種改良の研究をしていました!
<経歴>
新卒で「ジョンソン・エンド・ジョンソン」に入社
中部エリアでアカウント営業に従事
高販売実績者として米国本社研修へ派遣されました
2012年、キャリアアップのため、東京の医療分野専門の広告代理店へ転職
国内外の製薬メーカーや医師など様々な立場の方々とのプロジェクトをまとめてきました
2015年、地元の近くで子育てをしたい想いから、
求人のあった江別市の病院へ就職
マネージャーとして医事業務に従事
病院の経営収支をみる仕事でした
2022年秋、地元である美唄市長選挙への立候補を決意、同年12月に退職し、美唄市へ移住
【幼少時代】
美唄市西美唄町山形地区で育ちました。 農村部ですので、お祭りや盆踊り、子どもから大人まで全員参加の運動会などイベントを通しての人と人との関わりが、 濃かったように思います。家族だけでなく、地域の中で子どもが育てられる幸せな環境、時代だったと思い返されます。
【少年時代】
同級生は16,7人で、ほとんどが保育所から後に進学する中学まで同じメンバーなので全員幼馴染です。当時、西美唄では男子は野球、女子はバスケットボールが盛んで、私自身も小学3年生から野球を始め、 週末も休まず野球漬けの毎日でした。6年生の時に児童会長に立候補し、それまで学校にはなかったバスケットボール大会を企画し、先生方に直談判して開催にこぎつけたことが強く印象に残っています。
【中学・高校時代】
西美唄中学校に入学後は、岩見沢東高校、その先の北海道大学への進学を目指して勉強に力を入れるようになります。農家の長男でしたから、農家を継ぐ道に進むのか、そうではない道に進むのか、最初の大きな選択の時期でした。結果として、美唄市街地への塾通いなど両親のサポートを得て(西美唄からの日々の送迎は大変だったと思います)、進学を目指しました。この時、私の意思を尊重してくれた両親には感謝してもしきれません。
岩見沢東高校に進学、台風の日も雪の日も、両親に峰延駅まで送迎してもらい、皆勤賞で卒業。真面目だけが取り柄の凡才でしたが、1年浪人後、北海道大学農学部へ進学しました。春の雪原で合格の喜びを爆発させる私を見た祖父が、気が狂ったのかと心配して声をかけてくれたことは今でも家族の笑い話となっています。
【大学時代】
研究室では育種学を学び、稲の品種改良の研究者を目指し、稲の遺伝子についての勉強をしていました。しかし、海外の論文を読んだり、研究室で留学生との交流する中で、国外で働くことに関心を抱き、外資系医療機器メーカーへの就職を決めました。 また、北大学力増進会の英語科で、卒業までの4年間アルバイトを続けました。美唄でも授業をしたことがあります。
【社会人時代】
上京し、ジョンソン・エンド・ジョンソンの医療機器事業部門に配属。 約5年間、主に名古屋で営業職として総合病院向け提案営業に従事しました。新規開拓からはじまり既存顧客への実績拡大のため、医療従事者だけでなく、施設経営層への営業活動を行いました。また、同社の豊富な研修プログラムの中でマネジメントや顧客管理など国内外での研修に参加し、マネージャーとしての基礎を学びました。
マネジメント力を磨くための更なるステップアップを目指して、東京で医療専門広告代理店に入社しました。約3年間、大手医薬品メーカーを中心にプロモーションの企画や製作を経験しました。また、ライター、デザイナーや印刷会社など複数のパートナー会社で構成されるチームのリーダーとして、各種PRプロジェクトマネジメント業務に従事しました。アメリカ・ヨーロッパ・アジアで行われる国際学会関連イベント運営やアジア地域の癌診療ガイドライン作成などで多くの経験と実績を積みました。
【北海道へUターン】
北海道で子育てをしたいという家族計画実現の為、江別市内の病院に入職し、移住。病院の医療事務マネージャー職として在籍し、診療報酬請求業務や院内システムの管理の責任者として約8年間勤めました。経営会議では、主に病院の収入を増やすための提案を行っていました。
美唄に帰省する度に、新たな魅力を発見する一方で、その情報発信の少なさに、もったいないと感じたことが市政に興味を持ったきっかけでした。美唄で生まれる子どもが60人を切るなど、街の存続に関して非常に切羽詰まった状況であるとの情報が多い中で、市の予算編成に危機感が感じられず、自分に出来ることは無いのかと考えた末、一念発起し、2022年9月下旬、人生をかけて美唄市長選挙挑戦を決意しました。市議会議員を経験すべきではとのご助言も頂きましたが、美唄市再興に残された時間は少なく「今」大きな変化を起こさなければならないとの思いから、あえて市長への立候補を決意しました。私がかつて勤めた企業のスローガンに「Now,or Never.」という言葉があります。「今が最後のチャンス」という意味ですが、まさに「今が美唄の最後のチャンス」という覚悟で尽力してまいります。